FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

奇皇后-元の皇后になった高麗の女性

 
 
中国元の皇帝、順帝の皇后である奇皇后は高麗の女だった。13世紀モンゴル草原ではじまり14世紀の東アジアを拠点に中東、ロシア、東ヨーロッパまで合わせた巨大な領土をもつ歴史上類をみない大帝国だった元の皇后が高麗出身の女性だということは非常に興味深いことである。その上この奇皇后は皇后の座につくことに留まらず皇后となった後、37年間積極的に政治に介入し元と高麗に多大な影響を及ぼした。
 

高麗の貢女から元の皇后になるまで

チンギスハンの蒙古部族統一のための征服戦争は中国大陸部だけでなく、隣国を手当たり次第に攻め入り領土を広げる戦争へと拡大した。
破竹の勢いで突き進んだモンゴル帝国の7回にも及ぶ侵入にも関わらず高麗は30年間ひるまず抵抗したが、結局大帝国建設の強烈な野望の前にひざまずいてしまった。高麗は長期間に渡る抵抗のために、モンゴル帝国((フビライ・ハーン)が首都を現在の北京に移し、国号を元にしたのは1271年のことだ。この時期はまだモンゴル帝国だった)が征服した他の地域とは違い完全に服属国とはならず国号と政権を認められた独立国家として残ることができた。しかし大帝国だった元の支配下に入った100年余りの間、高麗は元朝廷からの内政干渉に苦しまなければならなかったことも事実である。

기황후
台北故宮博物館にある
奇皇后肖像画

王子たちは人質として元に行かなければならず、王は元朝廷に勝手に入れ替えられ、政略結婚によって元の王女が高麗の王妃となり高麗の政治に干渉した。朝鮮半島の北方の地は元の直接統治区域になり、元の征服戦争を手助けするという名分によって多くの物資と兵士が略奪に近い形で動員された。

その中でも元は高麗に貢女という非常に野蛮な要求をしてきた。貢女とは、文字そのままで女を貢物として捧げることである。元の貢女の要求は80年間正史にのこっているものだけでも50回余りに渡り、王室や貴族が個人的に要求したことも多かったという。

元が貢女を要求した理由は遊牧民族出身である元の王室に女が不足していたためだった。
元には王室が必要とする女以外にも元の貴族高官が要求する女も供給しなければならず、ある時は軍人集団の結婚のために多くの女を必要としたりもした。
 
貢女は高麗全体に大きな試練を抱えさせた。幼い娘を貢女に奪われないようにするために早く結婚させることが多くなり、早婚の風習まで出てくるほどだった。貢女は下層民だけ選ばれるのではなく元の王室の要求に相応する身分を持つ女も必要だったため、貴族の娘たちも例外ではなかった。高麗の貢女たちは元の宮殿の宮女や高官、貴族の妻妾となることが多かったが、妓生として売られ異国の地で悲しい生涯を生きなければならなかったりもした。貢女はそれぐらい高麗女性たちの前途を狂わす屈辱だったため、中には貢女に選ばれると自殺する者もいた。

奇皇后もこのような高麗貢女のうちの一人だった。奇皇后の故郷は幸州(ヘンジュ)で父は奇子敖(キジャオ)である。奇子敖は門下侍郞平章事だった奇允肅(キユンスク)のひ孫だったため官職を得ていることからして、さほど身分が卑しい家柄ではなかったようだ。奇皇后は奇子敖の末娘として生まれた。上に兄が5人、姉が2人いた。奇皇后は貢女に選ばれ1333年高麗出身の宦官だった高龍普(コヨンボ)の計らいで元王室の宮女となった。当時元王室では高麗出身の宦官が多かった。元は少数のモンゴル族が多数の韓族を統治する国であったため、韓族たちが中央政府に進出し力をつけさせないようにしていた。しかし支配構造を維持するためには必ず識者層が必要であった。遊牧民出身で教養を積むひまがなかった元の支配層たちはこんな要求を高麗が捧げた学識のある宦官たちを通じて解決した。高龍普も高麗から元に行った宦官だった。
순제
元の最後の皇帝 順帝

高龍普は祖国高麗から来た奇皇后を茶を扱う宮女の座につかせ皇帝である順帝の目にとまるようにした。当時元の皇帝だった順帝には変わった生い立ちがあった。幼いころ彼は王室戦争の狭間で高麗の大青島に1年間幽閉されていたのだ。高麗で暮らした経験のせいだろうか?順帝はすぐに奇皇后を寵愛した。

皇帝の寵愛は皇后の嫉妬を呼び起こすものだ。奇皇后は当時順帝の第一皇后だったタナシリから嫌がらせを受けた。タナシリは奇皇后を度々鞭で打ち、焼きごてで肌を焼いたりもしたという。順帝の第一皇后タナシリは順帝と政敵関係の家の娘で順帝との仲もよくなかった。奇皇后が順帝の寵愛を受け2年たった1335年、皇后タナシリの兄弟たちが順帝に謀反を起こすが失敗に終わった。この事件で皇后タナシリも反乱に加担したとして殺された。

順帝は寵愛してやまない奇皇后を皇后の座につけようとしたが、実権者だったバヤン(伯顔)に、蒙古族でなければ皇后にしてはならないと反対され、結局皇后の座には蒙古ボンギラート部族出身のバヤンフト(伯颜忽都)がついた。バヤンフトは非常に慎ましい性格で皇后になっても出しゃばらない人物だったという。
 
皇后になる夢を挫折した奇皇后はその後1338年に息子アユルシリダラを生み、次の年にバヤンが失脚すると第二皇后に冊立された。


元の実権者として浮上
 
奇皇后は皇帝の寵愛を背後に朝廷の実権を掌握した。第一皇后はお飾りのようなものだった。彼女は皇后直属機関である微政院を資政院に改変し、高龍普を資政院使として王室財政を掌握した。莫大な王室の財を手にした奇皇后はこれを元に権力を振るいはじめた。1353年に皇帝に圧力をかけ自分の息子、アユルシリダラを皇太子の座に引き上げ、同郷の宦官パクブルファ(朴不花)を軍士責任者、同知樞密院事にして軍事権も掌握した。

奇皇后が実権を掌握したことで、元では高麗の風習が流行りはじめた。これを高麗樣という。高麗の服飾と食べ物が元の高位層たちを中心に流行しはじめ、名門家に属すためには高麗の女性を妻に迎えなければならないという考えが広まった。

一方、奇皇后が元の政治を思いのままに動かすようになると、高麗に残っていた彼女の家族たちも勢力を得はじめた。元では彼女の父を栄安王(ヨンアン王)に、夫人を王大夫人とし、先祖三代に王の号を贈った。また、奇皇后の兄、奇轍(キチョル)を元の參知政事、奇轅(キウォン)を翰林学士とし、高麗でも彼らを德城府院君、德陽君に封じるしかなかった。奇氏家が高麗を超え元で力を得るようになると、高麗朝廷は奇氏家の顔色を伺うようになった。問題はこの奇氏家門の息子たちが元の力を高麗に有益に使うのではなく、自分たちの私利私欲を満たすために利用したということである。奇皇后も家族たちのために高麗に内政干渉に度を越して干渉した。そして結局恭愍王(コンミン王)即位後、元の力が弱くなった隙に奇氏家の人々を秘密裏に粛清することで終わりを迎えた。この時も奇皇后は恭愍王を失脚させ忠宣王の3番目の息子、德興君を王にしようと高麗に侵攻したがこの時すでに元の国勢が傾いており、高麗が元の軍隊を退け失敗に終わった。
 
もちろん高麗女性である奇皇后が元の皇后となったことで良かったこともあった。忠烈王の時に始まり80年続いた貢女の徴発が禁じられたのもこの時期で、高麗が元の支配下に入った後ずっと提議されていた立省論、即ち高麗の自主性を認めず、元の省にしようという論議が消えたのもこの頃だった。
       
 
元の没落と奇皇后の最後

元は順帝の時、文治主義政治を行い、文化的には全盛期を迎えた。しかし順帝の即位前にあった王位争いの余波が残っている状態で奇皇后が政権を握り、その後始まった皇位をめぐる戦争が元の力を次第に弱化させていった。元は少数の蒙古族が多数の韓族を統治する体制だったために、小さな混乱も国家の存亡がかかった危機となる可能性が高い国だった。
 
奇皇后は夫、順帝に皇帝の座から退き成熟した自分の息子に皇位を譲ることを勧めた。順帝はこれを拒否し、その最中に皇太子反対派と支持派の内戦が起こった。反皇太子派の指導者ボロト・テムルが1364年、首都大都を占領した時、
奇皇后は捕虜にもなっている。この内戦は結局皇太子支持者であるココテムルが1365年大都を取り戻し終わった。
 
奇皇后は1365年、第一皇后だったバヤンフトが死んだ後、第二皇后から晴れて元の第一皇后となった。しかし彼女の栄光は長続きしなかった。元の中央政府の政治が乱れると、今まで蒙古族の支配に反感を抱いていた韓族たちが紅巾賊となり立ち上がると元は収拾できない混乱の渦に巻き込まれていった。

1368年ついに朱元璋率いる明の大軍が元の首都大都を占領し、元の王室は逃亡した。奇皇后もこの時夫順帝と息子アユルシリダラと共に逃げながら、救援兵を送らない高麗を恨んだという。元王室は応昌府に首都を移し、カラコルムまで避難した。逃亡の渦中で順帝は死に、その座を奇皇后の息子アユルシリダラが継ぎ、北元のハーンに即位した。大都を去り応昌府へ行くまでの奇皇后についての記録はあるが、奇皇后の最後についての記録は残っていない。
 
しかし、連川(ヨンチョン)に奇皇后の陵があるという話が朝鮮時代の記録「東國輿地志」に伝わっている。陵があると伝わる地域に高麗時代の様式の瓦が多く発見されており、これが陵を囲っていた塀の瓦だったというのだ。ひょっとしたら奇皇后は応昌府からカラコルムには行かず高麗に戻って余生を送ったのかもしれない。
 
一時は東アジアとヨーロッパを従えた大帝国元の皇后だった高麗女性奇皇后は、長い間元の亡国の原因のひとつとみなされ、韓国ではほとんど知られていない人物だった。しかし確かなことは奇皇后という存在が14世紀末高麗と元の歴史に否定的ではあろうとなかろうと、大きな役割を果たしたことは事実である。




この記事はネイバーキャストの内容を翻訳をしたものなので、翻訳間違いなどがあると思いますのであくまでも参考にしてください

スポンサーサイト
[ 2013/11/10 19:54 ] ✤歴史✤ 高麗時代 | TB(0) | CM(2)
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
[ 2015/04/15 10:44 ] [ 編集 ]
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
[ 2017/08/14 09:35 ] [ 編集 ]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。